死にたくても死ねない

死ねばいいと簡単に踏ん切りがつくわけではないよねって話。

  

死ねばいいのに

死ねばいいのに

 

 

ぼくの日常はホント死にたくなるようなことが多くて、家族関係だったり友人だったり社会であったり、なにかあるたび生きづらさを感じてしまうの・・・。

被害妄想であったり、メンヘラちゃんだったりってわけではないけど、現状打破しようにもできなくていっそ死んでしまえば楽になれたりするのかな?っていつも頭の中で浮かぶんだよね。でも、ぼくには死ぬ勇気なんかなくてこうして自分の不甲斐なさに虚空を見つめブログで自分の心境を淡々と書いているんだよね。

 

なんでぼくが自殺できないのかって想像してもらいたい。っていうか、みんなの立場になって考えてほしい。自分がもしすごく困窮していて今すぐにでも死にたい、いっそ死んだ方が楽だと思う状況で、だけど自殺には踏み込めない、ってとき、みんなだったらいったいなんでそういう風になるんだと思う?

死が怖い

まず、「死が怖い」ってのがあると思う。ぼくはこれが原因じゃないんだけど、一般論はある程度分かったつもりでいるから書くよ。人間生きているあいだのみが人生で、死んだあとってのは誰もわからない、未知の世界だから怖いのだと思う。それを言い出すと生を授かる前はどうしてたの?意識はどの段階で生まれて自己認識はどのように行われたの?とかとか疑問はとめどなく出てくるし、それらのすべては人間という生き物で生まれた以上永久に答えにたどり着けない質問なんだと思う。ぼくの周りの知り合いにはたまに話すことがあるテーマなんだけど、今生きているこの世界って本当に存在するのかっていう疑問があるんだよね。「この世界にあるものすべて本当は夢だったりして、自分は寝ているだけで起きたら別世界。」とか「自分を主人公としたバーチャルリアリティ空間の中で自分が死んだらこの世界はすべて同時消滅する」とかさ、考えたことないかな。ぼくは今になっても結構こういうこと考えたりして、自分が死にたくなった時は自然とこういう仮説(っていうか妄想)をすんなりと受け入れて死が怖くなくなることがよくあるんだよね。実際問題、この仮説が間違っているという証明はこの理論の信者にとっては不可能なことで自分を中心とした仮想空間という設定の中では常識はすべて仮想空間内でしか役に立たないものだから偉い学者の発表した学説とかも何の効力も説得力も持たない。夢の中では空を飛んでいたり魔法が使えたり、っていうのをあたかも普通のように受け入れていたりする経験したことあるよね。それと原理は同じで、いくら証拠を提示されようがその証拠はこの世界にのみ確実性をもっているから意味がないんだよね。こういうのを俗に厨二病とか言うんだろうけど、この仮説は矛盾がすべてフワフワしてるから案外信じられると思うんだよね。ぼくもこの仮説が正しい日が来るのかもしれないっていう不安?期待?はぬぐえないもの。ぼくが馬鹿だからっていうのもあるだろうけど、一度考えてみてほしい。道理とか関係なしに可能性なくはないなって感じるはずだから。

散々ぼくの妄想を述べてきたけど、真偽はさておいて、誰も死の向こう側ってのがわからないから自らグッバイは厳しいんだろう。閻魔大王とか神様とか所詮は人の作り出した偶像だからね。閻魔がいるなんていう保障はどこにもないし、地獄天国なんていう概念すら存在の保障はない。ただひたすら混沌なのか、はたまた死を境界線として意識は消滅するのか。そんなこと考えても答えは出なくてただ頭がパンクするだけなんだよなあ。ぼくたちは死をどう捉えるのかに対する唯一正解的答えを出すことはできないのだろうね。

死んだあとが怖い

ぼくはまさにこれです。死を達成した時点で、自殺志願者の小さな悩みとかは消えてなくなるんだけど、そのあとの自分がいなくなった世の中が怖い。それは自分の居なくなった家族も然り、社会的集団然り、死んだ自分に対する皆の評価が怖い。自殺したということと交通事故で死んだこととでは死んだあとに印象は180度変わってくると思う。自殺することがマイナス評価につながることはほとんどだし、自殺に対する同情っていうのも上からの意見でマイナスからの派生でしかない。自分に対するマイナス評価のみだったらまだしも自分の家族や友人などにも評価が影響するってのがまた面倒臭い。自殺した人を自殺に追い込んだ環境だったり、自殺するまでため込んでいたのに気付かなかった人だったり、そういうのを周囲の関係のない第三者は責め立てるのだろう。自殺した場合、一方からの解放を望んで自殺に至るんだけど、他方からの評価は現状維持が望みだったりして、それらが複雑に絡み合ってるからぼくは死にたくても死ねないのだ。今ここで死んでしまえば圧力をかけられて苦しめられた方からの解放は達成できるけど、自殺してしまったインパクトは知人程度の交友関係の人たちには過大な印象を与えると思うんだよね。自殺に至るってことが一種の性格のステータスみたいなもので、自殺をしたってだけでその人の性格に加筆修正がされてしまうような気がする。それもよくない方への加筆修正。それまで築き上げてきたいいところとかも台無しになることが多い。それくらい自殺のインパクトってデカい気がする。

生きていたらの将来が怖い

自分が今ここで自殺したら、自殺せずに生き続けていたらいったいどうなっていたのだろう?っていう想像をすると怖くなる。自分の存在証明ができずじまいで死んでいったように思えてならない。自分がこの世の中にいたっていう記録が何にも残らないようで、今まで生きてきた時間がすべて無に帰るっていうのがいまのぼくの段階ではあまりにも無駄すぎる。自分が今あるのは親が養ってくれたおかげで今死ねばそれまでかけてきたお金がすべてパアになってしまう。人が一人自立するまでにかかる総額は3000万~5000万の相場らしい。それに加えてこれから先の出会いや別れ、楽しみや苦しみ、そういう人生の起伏を味わえずに死んでしまうのが正直なところもったいないと感じてしまう。今どれだけつらくても、これから先待ち受けている楽しいことの方がぼくを行動に移す原動力としてのパワーが大きいんだもの・・・。そういう自分がすごく馬鹿で憎たらしく思える。インテリジェンスだったらこんな目の前にある小さな宝にほいほい釣られないんだろうなって思うと、自分の馬鹿さ加減に悲しくなってしまうのです。

人のつながりがあるから死ねない

結局、どんなにぼくが自分のことを孤独だとか思っても自殺をしてしまえば、凄く小さなつながりの人にもぼくのことがいきわたって、ぼく自体の、そしてぼくの周りの今後につながるんだと思うと、申し訳なくなって死ねないのである。人は言語を介して相互にコミュニケーションをする、つながりを持つ生き物だから、ぼくは死ねない。そういう意味じゃ死ぬ勇気がないのかもしれないね。がんばって毎日生きるとしかない。自殺の代償って自分の命だけじゃない、そう思うんだよね。これを読んで自殺志願者減るかなあ・・・?それは無理な話だろうけど、ぼくは今日も死なずに生きていく。(おしまい)