学力は環境に依存する

すっごくテンプレートみたいな話をする。

 

 

誰しも学生時代には親に「勉強をしなさい」の類の言葉をかけられたと思う。ぼくが味わった学生時代の勉強する姿勢について深く掘り下げることにする。

 

勉強って唯一正解があるわけじゃない。人それぞれあった勉強法があってそれを見つけるのが合格・成功への一番の近道ですよね!(進研ゼミかよ)ぼく個人の考え方を言うと、頭のいい人、つまり結果を残している人のやり方が必ず正しいと思わない。これは高校生に入ったころから思い始めたことだけど、人の頭の処理能力って人それぞれ大きく違うと思う。世間で言うところの、ノロマな人とかデキる人ってのはその頭の能力に左右されているんだって勝手に思ってる。ぼく個人的に苦手なことが勉強で生まれたのも高校生のころで、それと同時に気付いた。

ぼくの話をすると、ぼくは記号のみで構成されたものが苦手なんだって気づいた。少ない量だったら処理できるけど、たくさんの記号で書かれたものがどうしてもほかのものに比べて頭に入ってくるスピードが遅い。具体性を持たないものを具体性の持つものに置き換えるっていう動作を無意識のうちに頭でしないと理解できないからそれが同時に大量に流れ込んでくると処理しきれず記憶から漏れていくのです。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないことだろう。勉強ができる部類では決してないけど、まったくできないわけじゃなかったから、小学生のころなんかは躓くことはなかった。そのころから躓いていた同級生を傍目から見て、なんでこんな問題で躓くんだろう?って皮肉なしで本気で考えたことだってある。それは今の自論では明白で、処理能力がその時点で低かったのだろう。全ての勉強ができなかった友達はいなかったし、どれも不得意科目がチラホラ目につくだけ。得意じゃないことに対する処理能力が人一倍低かったんだろうなあ。自分がそっちに仲間入りしてからは痛いほど身に染みた。

頭の良さって遺伝するのかどうかは知らないから何とも言えないけど、両親は名のある大学出てないし、その偏差値も調べてみれば大したことがない。失礼なことだけど、努力が必要なのかどうか疑問視するくらいだ。そんな学歴という盾が薄っぺらな親に自分の勉強法をとやかく言われることがものすごく腹が立ってた。自分のやり方を否定され、違うやり方を押し付けられることが何よりも嫌だった。そのやり方を拒むには認められなくてはならなくて、でも、ぼくは誰かに認めてもらうためにやっているんじゃない。勉強のやり方まで親に認められてから始めるなんてことが屈辱というか窮屈で仕方がなかった。その上、注意する側が、「やり方が間違っている」などとわかったような口をきいていたのにも嫌気がさした。家の中でいる間すら自分だけのパーソナルスペースがないように感じて、思春期のぼくにとってはとてもストレスだった。

偏差値が50程度のくせに努力をしろと言う神経が嫌いだった。努力をしたのか?逆に聞きたくなるもの。相当努力してそれなら仕方ないって思うけど、そうまでして得た結果が人並っていうのはどうなのか。努力が足りないといわれないのか。限界だというならば自分の息子にそれ以上を強要するのは期待しすぎじゃないのか。・・・・書き連ねようと思えばいくらでも出てくる批判。

ぼくは学歴社会とか学歴こそすべてみたいな風潮はすきじゃないけど人を測るものさしの一つとして使う分には仕方がないと思ってる。学歴だけで判断するのは違うと思うけどね。こんな風に学歴ってスッと簡単に人を秤にかける指標になってしまうから怖い。というか、学歴という盾がない人は持ち出されるたびに毎回劣等感を抱いてしまうのだから恐ろしい。面識がない場面では印象すら決まってしまう。そんな風に感じさせられるように仕向けたこの社会が怖い。いつになっても社会という大きな手のひらのうえでぼくらは転がされているんだなあって鳥肌が立つ。社会全体のこういう雰囲気、ルールを決めているのはいい大学を出てる頭のいい人たちなんだよなあ。そういう人たちに都合のいいように社会は作られているんだから、損をしないためには、社会に屈しないためにも、支配する側に回らなくてはならんのですよ・・・。ぼくは支配する側まで行かなくてもいいから搾取されない立ち位置には属したい。学歴がない、仕事がない、お金がない、これらの人たちの社会からの搾取され具合は異常といってもいいくらい。生活水準が高い日本だけど、下の方に目を向けてみれば他国と大差ないように思う。

 

よく言われる話だけど、「自分が失敗したからその経験を活かして自分の子供には同じ失敗を繰り返してほしくないから注意をする」みたいなことを堂々という人がいるけど、それなら自分が失敗したことをしっかりと分かるように全面に出して言え!!!って思う。自分が何で失敗したのか、それって大抵自己管理のできなかったところに起因するはず。なのに、そこははっきりさせないから、傲慢知己な、自分のコトを棚に上げた嫌味なことをいう背伸び人間になってしまう。そうなれば、注意される側としても何故自分はできもしなかったくせに大きな顔をされねばならんのだ?と思うわけ。信用することができない。そんなわけでぼくは学生時代、毎日フラストレーションをためまくっていたわけです。

できなければ注意することができないのか?と言えば、そうではないけれど、やり方ってものがあるはず。親と子どもという立場関係の前提があっても、筋を通す必要性は大いにある。どんなやり方でも親が子供へ注意するのはOKってのは間違ってる。自分のやり方を否定されるということは自分自身を否定されることと同義だ。そんなの教育なんて言わないと思う。洗脳・調教の類だよきっと・・・。

ここまでぼくの個人的な意見で論をグイグイ引っ張ってきたわけだけど、これが完璧な理論だなんて思ってない。ただ一部から見ればこんな見方もできるだろうな程度です。自分でもこれは言い過ぎなんじゃないかなって部分はたくさんあるけど、言いたい大筋はこの記事で間違ってないはずだ。勉強させるってすごく難しいことだと思うよ。例え興味がなくても、やる気がなくても、怠れば人生180度変わってしまう世の中で、それを知らない子供に如何にして勉強を行う環境づくりをするか。それが親に求められることだとも思う。勉強法ではなく勉強に向かう姿勢、それを育むのが親の役目なんじゃないのかな・・・・。(おしまい)