保険として予防線を張ることに意味なんてない

アンチを怖がってちゃ伝わらない、勇気が必要。

 

 

自分の文章に保険を掛け過ぎている自分がいる。自分が何か記事を書こうとするときに、誰かしらから悪意のあるアンチコメントをされるのをぼくは異様に嫌っているケがある。だから、未だ誰かにアンチされているわけでもないのに、「これはこういう意味であり、こういう意味にも受け取れるけどそうじゃないんだから勘違いしないでね、いや、あの、そういう意味にも取れるのは十分承知なんだけど・・・etc」とまぁ、こんな感じで予防線を張ってしまっている。このせいで、むしろ話がややこしくなるというか、なにがいいたいのかまるで伝わっていないような気もする。ストレートな言い回しには必ず語弊が生じるわけでそれを怖がっているようじゃ、言いたいことなんて何も言えないだろうって話。 

言いたいことを言うにも環境が必要

 

誰かにアンチされたっていいじゃないか、罵倒されたっていいじゃないか、って思えるようになるにはそれなりの僕のために作用してくれる盾が必要になってくる。そういった後ろ盾がないのに、「ぼくはこう思う!おまえらはどう思うか知らないけど俺はこう!」って調子に乗っているようにもとられかねない言い回しはできそうにもない。

あぁ、ぼくはなんて弱い人間なんだろう。顔も見られないネット環境で悪意のあるコメントや批判にすら怯えているんだもの。こんなんじゃいつまでたっても社会的弱者のまんまじゃないか。

万人受けすることがぼくの目標なのか?

 

誰からも愛される存在というものにあこがれてしまっているのかもしれない。みんな幸せで仲良く、万人受けする文章を書きたい、そんな風にすら思ってるのかもしれない。実際問題、万人受けする文章なんてかけてないんだけど、(っていうか万人受けする文章なんて誰も書けるはずがないんだけど)、いざ万人受けする文章が書けたらそれで僕の思いや願いは達成できるのかと言えばそうではないんだと思う。

ぼくがこういった匿名環境の中で胸の中に潜む、腹を割って話さないといけなくて、誰からも共感されないんじゃないかと自分を異端なんじゃないかと疑心暗鬼になることを恐れずに書き物をするということは、むしろ万人受けではいけない気がする。もうすでに自分を平均的な人間とは思っていない、むしろ脱落者の類だ。そんな人間のくせに万人受けする文章を書こうなんて、何ぬかしてんだって話でしかないんだよね。ぼくが目指すべきポジショニングってのは社会的弱者の苦悩をどうにか文章にして、それに共感してくれる人を身内にしていくことなんだと思う。

「夢は必ずかなうよ!頑張ろう!」的なノリはアイドルだったり、夢をかなえた人たちが臆面もなく謳ってくれればいいんだ。一番現時点で万人受けする言葉ってのはポジティブで希望のような役割を各々の心の中で担うような言葉たちなんだ。ぼくはそういったスポットライトが当たるところにいるべき人間じゃない。内輪で盛り上がっているだけでもいいんだ。そういう環境で自分なりに精進していけばいい。そういった環境でいけしゃあしゃあと何かについて言っていれば当然たまたま目に入った誰かさんから批判されるかもしれないだろう。でも、ぼくはそれに真っ向から立ち向かっていかなきゃいけないんだと思う。同じ社会的弱者の希望にすらなればいいと思う。どんなに誹謗中傷されようと、ぼくはぼくであることを曲げずに生きていければいいと思う。

自分らしさはダメらしさではないはず

 

ぼくはぼくであることっていうのはダメであり続けるということではないはず。上方修正できるのであれば、していくべきだと思うし、自分が受け入れられることは受け入れて、受け入れられないのに受け入れようとするのではない、ということだと思ってる。

ぼくはこれからもダメな人間のままだとは思うけど、いい人になりたくないわけじゃない。そりゃそうだ、誰だってそうさ、ヒールになりたがるやつがマジョリティなわけないだろう。常にだれかに怯えているなんて嫌だ、ネット弁慶でもいいからぼくはぼくの言い回しであなたたちにぼくという人間を見せつけていきたい。どうかこれからもよろしくお願いします。おしまい。