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ぼくはメンヘラ

「愛してほしい」が一番重い言葉な気がする。

 

 

1から10まで愛してほしい

1から10まで愛してほしい

 

 

ぼくは傲慢だ。恋人に自分と同じ気持ちを相手にも求めてしまってる。僕の感じている思いの強さが分かってほしくて、そのうえ、ぼくが思っているのと同じようにぼくを大切にしてもらってほしいし、愛してほしい。最早ぼくのことだけ考えていてほしくなる。そんなことは当たり前に無理なのに納得することができない。そういうところがぼくが馬鹿でろくでなしである所以だろうな、きっと。

恋愛において、軽いか重いかで言えば重い人の方が自分を愛してくれている実感がわくから好き。でもきっとこれは自分が恋愛だと重い人間だからなんだと思う。重い女の代表格としての俗にいう「メンヘラ」が嫌われる性質だと言われてもぼくはそれくらいの愛情表現をむしろ喜ばしいと感じてしまうし、これまで生きてきて形成してしまった「他人を疑ってしまうクセ」がこの傾向を加速させているんだと思う。

ラブラブのバカップルが目標じゃないし、ぼくはその類に足を踏み入れることを許されていない人間だと自覚しているけど、狂うほど愛してくれるなんてこの上なくうれしいし、それに払う代償はがいくらあったとしても、愛が見える形で確約されているなら、僕はいくらでも代償を受け入れる。他人と接触するなと言われても、僕もそれは相手に感じてしまう節があるし愛されるための必要条件、前戯のような感覚になれて苦痛じゃなくなると思うんだよね。

「ぼくを愛してくれればそれでいい」なんていつも言っているけど、この望みが案外難しくて、今まで関係を持ってくれた人たちが皆向こうから駆け寄ってきてくれて、結果向こうから去って行ってしまったのもきっとこの望みが体現化したことでの成れの果てなんじゃないかな。「僕を愛してくれ」に含まれている意味合いの中に(僕に見える形で)とか(僕が求めている大きさで)という括弧書きが隠れていたんだと思う。

彼女がSNSで他の男の話をしているのが虚しくて「ぼくのことを頭の中でどこかに居場所を作ってくれているのかな」なんて常に悩んでいたりする。それを彼女に直接聞くのはおかしいし、きいたところで考えてないなんて言う人は恋人じゃないから聞くだけ無駄なんだけどね。もし唐突にぼくの話をSNSでし始めたり、ずっとぼくの話をしているのもおかしいってことは十分わかっているんだけど、わかっているんだけど、心の整理がどうにもつかない。ぼくだけを見ていてほしいっていうワガママを思ってしまうぼくが一番メンヘラだった。

メンヘラって表面的な行動が相手や周囲に誤解を招くけれど、実のところ傷ついたり傷つけられたりした人たちなんだと思う。メンヘラ当人も、メンヘラでしかいられない抜け出せない理由も少なからず背負っているんだろう。縛られているからこそ他人を縛ってしまう。今ならぼくはメンヘラの一番の理解者になれるはずだ。人を傷つける悪性のメンヘラではなく、人を傷つける”勇気すらない”良性のメンヘラであるぼくならきっとね。同じ境遇の人間にしかわからない痛みがあるはずだから、何か原因があってメンヘラとなってしまったならば、ぼくはわかってあげられる気がする。その原因をメンヘラ以外の普通の人間に話したところで理解はしてもらえない。もし話を聞いてくれる優しい人がいても本質を理解してもらうことはできないと思う。孤独が嫌で、愛されてることを確認したくて、引き起こす反応を「メンヘラ」と呼ぶことになったんだとぼくは思う。大多数に受け入れられないのは、そういった経験をしたことがないか、もしくはそれを乗り越えることができた人たちだからであり、ぼくたちが乗りることができなかった弱い人間だからだ。

ぼくは醜形恐怖症が断片的に発動しているのかもしれない。自分の醜さがコンプレックスとなって、常に嫌われていると錯覚する。容姿だけじゃないってわかっているのに、どうにもならない。きっとぼくは抱え込みたくないだろう爆弾であり、爆弾であることを気づくのに時間差があるから厄介で面倒くさいんだと自覚している。

ぼくは恋人には本当の自分を受け入れてほしいとワガママな想いがあって、いつもかぶっている仮面を外して「怖くて仕方がないこと」、「寂しくて仕方がないこと」、「文字通り受け取れないこと」などを打ち明けて自分の弱さを包み込んでほしい。こんなの客観的に見たら、メンヘラが「恋愛に発展してから重い人間に人が変わる」という意味合いではぼくも同じだ。いつもは軽くてヘラヘラしていて、人を笑わせることや楽しませることを最優先しているぼくだからこそ、きっと付き合ってもそれが続くのだろうと思ってくれた人たちなんだきっと。恋人になったからと言ってどう思ってか疑わなくなるわけじゃない。どんなに親しくなって「相手の本意はいったいなんだ?」と探ってしまっている。相手のネガティブ発言だけは信用する、嫌われるのに好都合な取捨選択ばかりしている。心のどこかでぼくなんかと一緒に居てはいけない、相手を巻き込まないように自らをネガキャンしていたいと思ってるのかもしれない。

ぼくは結局重いんだな。相手にもわかりやすい愛情表現をしてくれるよう求めている僕が嫌い。生活しているんだから、恋人の事だけを考えて生活している人なんているわけがないのに、相手に無理を求めてしまっている。自分で自分を説得することができない馬鹿で愚かな人間だなあ、と哀しくなった。

あぁ、こんな自分が嫌いで仕方がない。ぼくというはずれくじを引いてしまった方々に申し訳が立たない。この性質は買えることができない以上、「ぼくなんか・・・」などという相手に無礼な発言は控えなくてはいけない。自分で自分を偽ることに抵抗する必要なんかないのかな。というより、それしか方法がないんじゃないのかな。元々外れた人間だから自分の価値観そのものが壊れていてもおかしくないだろうよ。

ぼくが傷つくのはもう慣れたんだから、僕がずっと傷つき続ければいいんじゃないかな。なんてメンヘラの典型的な思想をぼくはしてしまっているんだけど・・・。誰かにその荷物を一緒に担いでもらおうなどと考えるから、わずかなチャンスもふいにしてしまうんだろう。そんなのは僕ができる行動なんかじゃなかったんだ。今までぼくに付き合ってくれたおかげで傷つけてしまった人に謝りたい。もとはと言えば、僕をこんな風にしてしまった人たちのせいだ!!なんて心の中で思ってしまってはいるんだけど、その悪意に毒されてしまったぼくにも非がある、っていうか、ぼくのせいだろう。小難しく受け取っているんだから、もっと簡単に考えなくちゃいけないな。相手を図ろうとしてはダメなんだ。ぼくみたいな弱い人間はしっぺ返しを食らいやすい。ひたすら耐えるしかない、疑問を殺す、自分を殺すんだ。ぼくがぼくらしくあるための必要最低限をすればいいだけで、余計なことをする必要はないし、相手を幸せにできればそれはすなわち僕らしくあることにつながるんだと思う。はたして相手を幸せにする力をぼくがもっているかどうかはこの際どうでもいいんだよ。誰かの傷つく顔なんか見たくない。文字通りの意味でぼくは使っていないんだろうけど、「愛されたい」という欲求は捨てなくちゃいけない。

一通り文章を読み直してみると。ぼくは自分を全て解放するか、すべて閉じ込めるかという極端な二択しか持っていないことに気付いた。そういう全か無かという考え方は自分も他人も傷つけるってことをぼくはわかっているはずだったんだけど、やっぱりうまくいかないな・・・。うまく生きていかなくちゃいけない、バランスを取っていかなくちゃならない。ぼくを応援するぼくでありたい。そんなぼくからぼくへの応援メッセージとして振り返る為の反省としてこの考察を残そう。ぼくが二度と過ちを犯さないために。今年は少しでもこの苦労性を治せるといいな。おしまい。