嫌いな人を嫌いたい

嫌いたくても嫌えないことが自分にとって辛くても周囲からは羨望のまなざしで見られることのギャップ。(言いたいことをただ羅列する雑記以下)

 誰だって好きな人と嫌いな人がいるわけで、嫌いな人はその人の中から排斥されて共に過ごす時間は最低限になるのだろう。しかしながら、ぼくはそれができない。嫌いな人を嫌いだと割り切って自分の中から追い出すことができない。悪意のある行為をされてすごく嫌な気持ちになって、その日限りでもう縁を切る、この人とはかかわらない、優しくしない、などなど決めても次の日にはケロッと忘れているわけです。どういうわけなのか。怒りが消えれば、それまでの悪意への対価を求めずにいてしまう。それが周りから見たら優しさに見えるわけで、でも僕の中ではそういう意識はなくて、だけど、悪意や嫌悪は消えている。消えているけど悪意や嫌悪があったことは覚えている。しかしそれを徹底できない。難儀な性格である。嫌いな人に嫌いなことをされるのにそれでも一緒にいてしまう僕は本当に損な性格で、いじめられているのに依存してしまう人となんにも変らない。あとで悲しい思いをするということを理解しているのに行動できない。なんなんだろう。何回も痛い目を見て、それでもなお拒絶反応のように嫌うことができない。

嫌いな人には嫌いな人なりの接し方をするしかない。そうして距離を取りつつもかかわるという方法を僕は取っている。それは無意識のうちに行われていることで自分からこうしようと意識をして行っているわけではなく、あとから気づいたことなんだけど・・・。

嫌いな人には嫌いな人として接する方法って割と自分の中で荷が軽くなることがわかった。自分が苦しくて悩んでいるあの空気を払しょくできる。自分は嫌いな人には嫌いな人用のテンションがある、という感覚が凄くありがたい。好きな人にはお土産だって買うけど、嫌いな人には買う必要ない、みたいなことです。

実際に行動できているのかどうか自意識の中でもう判別できないけど、それでもぼくにはこの感覚が自分を保つために重要なポジションを占めていると感じる。

あぁ、嫌いな人なんていなくなればいい。ぼくは結局嫌いな人がいないわけで、嫌いだと思ってもかかわっている時点で嫌いなわけではないと思うし、今後の人生でかかわることすらままならない化け物のような嫌い方をする人が現れるだろうし、そういう人が出てこない現在の時点で僕は周囲の知り合いに恵まれていたのかもしれない。というか、恵まれていたのだ。恵まれていると考えるしか腑に落ちない。ぼくが拒絶反応を起こすことのないほどいい人に恵まれてきた我が人生に感謝。ということでまとめますか・・・。おしまい。