良書に巡り合うには?
良書に巡り合いたい、よね?
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤忍随
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/07
- メディア: 文庫
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askfmで質問をいただきました。
良い本と巡り合うにはどのように本を選べばいいと思いますか?為にならない本を読んだ時の時間を無駄にしてしまった感が嫌で話題の本にしか手を出せないのです。
良い本とは何か、読書とは何か。そんな観点から少し話をさせてもらいたいと思います。
良い本ってなんだろう?
良い本って何か、そこからまずこの話は始まります。自分を成長させてくれる本、新たな発見をさせてくれる本、楽しませてくれる本、などなど色々と良い本はあるわけで何が良い本かってのは人それぞれなんですよね。
ぼくにとって良い本ってのは、また読み返したい本だったり、この人の表現や考え方はぼくには無いものだから取り入れていきたい、みたいな感情の発生する尊敬できる本だったりするんだけどそういう本に必ず出会えるわけではないですよね。良い本という定義は別にしても各々求めている本への出会いに対するアプローチは一緒だと思うので、そんなお話をします。
全て良い本なんてことはまずありえないのは自明だと思うけど、何が良い本かって自分の中で定義づけるときに、今までの失敗があってそれらとの比較があって初めて優劣がつくもの。だから、いい本に巡り合いたいけど失敗したくないってのは本末転倒な話で、まず悪い本とはどういうものなのかってのを経験しないといけない。そうじゃないと貴方が思う良い本ってのと真に良い本ってのに差異が生じている可能性だってぬぐいきれない。なのに、良い本に巡り合いたい、良い本だけに巡り合いたいってのはあまりにも傲慢すぎませんか。失敗は成功の母とはよく言いますが、失敗することがあなたにとってさらに良い本の価値を上げることにつながると思うんです。そしてこの本ってなんでいい本じゃないのかなって考えたときに、その考察から得られるものだって必ずある。失敗から得られる教訓的な感じで良い本じゃないものにも何かしら得るものはあるはず。たとえば、こういう本は今後選ばないようにすればいいんだ!とか、ここが僕に合わなくて、とか。良い本に巡り合うためのショートカットが見つけられるという点では良い本につながる悪い本も、ある意味で良い本だったりする。
本当に良い本なのか?
たまたま今まで出会った本がすべて良い本だったというならばそれはあなたが真に良い本を見つけていなかったり、あなたにとっての良い本ってものさしがあまりにも大きすぎて雑だったりするんですよね。だから、中途半端に良い本を見つけようと躍起になっても空元気でしかないし空回りしちゃうもの。たとえば良い本を見つけようとして失敗したらなんか損した気分になっちゃうでしょ?良い本を見つけようとしてないのに良い本に出会えたらなんか得した気分になれるでしょ?そんなスタンスでいることが一番いいと思うんです。
ぼくの場合、自分の見識を広めてくれる本が良い本なんだけど、自分が成長できるような本を探そうとするとどうしても表面的な薄っぺらい本に出会っちゃうことが多くて、自分が惹かれる本ってのがどうしても結果に直接的過ぎな表現を使用していて中身がないことが多くて。そういうスタンスをやめて、薦められた本だったり、ただ何となく手に取った本だったり、自分が欲している情報とは違うんだけど何か得られるものがあったらいいなあ程度で手に取る本から新しい何かが得られたときって、それは良書に巡り合えた時と変わらないんすよ。むしろその方がぼくにとっての見識の深さは広がるし、多種多様な知識を得られる。
好きを好きだと言い切る為に
好きなジャンルというのは結局自分が足を突っ込んだジャンルでしかなくて、本当に好きなジャンルはほかにあるかもしれない。一回も挑戦せずにただ敬遠しているだけではそれは好き嫌いという指標で測ることはできない。自分がこれを好きってことを声を大にして言いたいのであれば、ほかがそのジャンルよりも劣っていることを一度確認しなくちゃいけないんだけど、自分を否定したくないからどうしても初めてのジャンルを否定的な見方で見てしまって客観的な評価ができなくなる。そうなってくると、本当は自分に合ったジャンルだしても、それを見逃してしまう。つまり良書と巡り合う可能性をまた一つ消してしまうことになる。
話題の本は継続して読むべき
質問者様が言う話題の本ってのはそういう点でも自分の好きなジャンル以外だったりすることも多分にあると思います。ぼくの論説はちょっと詭弁みたいなところがあると思うし、自然と出来ていることは自分に合っているということだし、質問者様が現在進行形で続けているだろう話題の本を手にすることはこれからも続けてほしいです。最近話題になった本だったら「コンビニ人間」は芥川賞取った純文学枠だけどライトな文体でページ数も多くないし、純文学を読まず嫌いしている人の入門書としてもうってつけだと思いました。そんな風に話題の本に片っ端から手を出すのもある意ではぼくの持論に沿っていることと思います。
読書について
冒頭で張り付けた「読書について」では、読書なんてものはしない方がいい、みたいな感じで論が展開されていくんだけど、読書はしない方がいいですよ、って言われたからって読書しなくなるのはそれこそ、この本の言うところの読書のだめな部分でありまして、っていうそういう二重否定が含まれている本なんだけど、一度読んでみるといい。読書について論じる人がいて、それを読んでどう感じるか自分はどの立場にいるかって言うのを明白にするのは大事な過程の一つ。ショウペンハウエルという偉大なる哲学者の言うことだから鵜呑みにしたくなっちゃうけどそこをぐっとこらえるのもまた一つの鍛錬になるかと。結局自分で考えなくては意味がないということで、「読んだだけ」にならないように気をつけなくてはいけない。
読書は他人にものを考えてもらうこと。だから本を読むことは他人の思考過程をたどっているだけであって、自らの思索の自由を阻めることになる。書物から読み取った他人の思想は、他人の食い残し、他人の脱ぎ捨てた古着に過ぎない。ヒマさえあれば本に向かうという生活を続けて行くと、精神が不具廃疾になるという。ーショウペンハウエル「読書について」
為になるかどうか
為になる本かどうかっていうのは最後まで読まなくてもわかる気がする。一度本を読んだら最後まで読まなくちゃいけないという半ば使命感みたいなものが芽生えてしまうけど、為になるかどうかという観点だけであれば途中で読むのをやめるという英断も時には必要。多読のススメみたいな本では必ず紹介されているであろう方法。ぼくはあまりこのやり方が好きじゃないけど、好き嫌いいってばかりじゃダメかなと時折やるようにはしてる。合う、合わないというものが物事には必ずあるし、一つのやり方に固執したりしてはいけないとも思うので色々と試してみてほしい。「読書について」では多読について以下のように批判している。多読しても自分の頭で考えられる人間でありたい、というか、あり続けなければならない。
自ら思索しようとせず、最初から本に頼る。書物によって知り得たにすぎない知識や思想を、あたかも自分のもののように振り回す。まさにバカにハサミ。多読すればするほど、自由な思索にバイアスをかかることに気づかないまま、自分のアタマでは1ミリだって考えられなくなる。ーショウペンハウエル「読書について」
〆
思ったことをダラダラと書いてきたけど、何がいいたいか整理すると、良い本に巡り合おうとするな。この一言に尽きる。自分の好きな本やジャンルはあるだろうけど、それとは別に新たな本を常に探し続けることをやめてはいけない。為になる本を求めるのであればきっとそれが一番。ぼくは背表紙だけで興味の湧いた本を古本屋で買うというのが結構好き。読書とは時間を無駄にしたかどうかっていう感情だけで読むのは勿体ないもの。無駄な時間っていうものは本当に自意識でどうにでもなるというか、自分が無駄と感じてるだけって事柄たくさんあるから、一度何が自分にとって重要なポジショニングをしているかということを確認してみるというのもいいかもしれません。
直接的な回答になっていたかどうかはわからないけど、この文章を読んで、質問者様が何かを感じ取ってくれれば幸いです。質問どうもありがとうございました。また何か浮かんだら是非とも質問をください。期待に沿った答えを返すことができないかもしれないけど、その質問でぼくも自分を見つめ直すことができる気がするので。よろしくお願いします。(おしまい)