自分を持つ

自分を持つということ。

人生論 自分の顔を持つ人になる

人生論 自分の顔を持つ人になる

 

 

 

 わざわざ考えてたことやモヤモヤを書こうと思うと、今までの自分が持っていなかった新しい発見だけを記そうとしている自分がいて、っていうか、それが普通の感情で正解の一つだと思う。毎回こんなことに悩んでる自分がいるから、導入部分がいつまで経っても一辺倒になってしまっていたり、記事の執筆頻度が遅かったりするんだろう。

ぼくが絶対に曲げることがないだろう、曲げることができない事についてわざわざ意思表示することに煩わしさがあったり、恥ずかしさがあったりして、理路整然と並べることができなかったりする。ある種デリケートな部分ってのは、ぼくを構成する成分として言わずもがな必ずぼくの言動、一挙一動に現れてきてしまうものだと思うし、そうなるとぼくがテーマごとにわざわざ場所を用意しても、既視感を読者の人は絶対に感じてしまうはずだ。

たぶんこの文章も言わんとしていることはきっと過去の記事やSNSなどで絶対含みのある発言はしていると思うし、この文章自体も既に既視感を覚えられているのかもしれないといういたちごっこなのだけど、やっぱり言葉の深いところまで汲み取ってくれる人は僕の事をすごく理解してくれている人や理解しようとしてくれている人で、大多数を占めるぼくにそれほど興味を示していない人に提示するにはやはりこのような形を取ってぼくはこういう人間ですという標識を立てる必要があるんだとも思った。だからこうやって記事にしてみようと、ダラダラと頭に浮かんだ独白をコピペしているわけだ。

似通った文章がどこかで重なり合ってしまうのは最早しょうがないとは思う。表現だって僕の琴線に触れたものは何度だって登場するし、その表現が僕の程度を表しているような気がして少し恥ずかしかったりもするのだけど、きっとその表現に現れているようにぼくという人間は優れた文章家ではないのだから先ほど言ったようにしょうがない。これは諦めというか開き直りではあるんだけど、決して前進することを止めたわけではないのであしからず。

ぼくは自分という尺度を客観的に見ようとすることが好きで、自己陶酔している自分が好きなのと同時に、自己陶酔している自分を俯瞰している気になっている自分も両方とも好きで、自分を構成しているのだからどちらも愛さなければならないと思っている。

自分を持つ。この言葉に集約されるのだけど、自分とは何か、それを考えてる自分も自分の一部分であって、フラクタルのようにモノサシを細かくすればする度また更に深い部分が現れてくる。だから自分を全部知ることはできないと思う。だけど、それは自分がどういう人間であるかというモノサシで測った時の話で、対外的な交流をするときにはあまり役に立たない尺度だったりする。自分という一個人を確固たるものにするための意志や意見はしっかりと持つ。それが社会生活における「自分を持つ」ということにつながるのではないだろうか。

自分を持つことで、発生する他者との差異をぼくはブログなどの場所で発信していきたいのだ。自分はどう思うか、ってことを主張したい。自分がいかに優れているかを誇示していきたい。ブログとか物書きの原体験って絶対そこだと思う。周りを見渡せば、ぼくより優れている人間なんて幾らでも居るし敵わないと挫折することだってある。だけど、ぼくがぼくである理由を言ってみたい。多数派だろうが少数派だろうが構わない。自分の場所が欲しい。自分の場所に誰かが入ってきてくれることで自分に自信が欲しい。自分を誰かが攻撃することで自分を昇華させて死角を取り除きたい。ぼくはそんな風にしてブログを利用していきたい。自分を持ったことにより始めたブログで、新たな自分を持つことになる。そんな使い方って美しいとぼくは思うのです。(おしまい)