自分の人生の重要なものについて-「命にふさわしい/amazarashi」

命とは何か。相応とは何か。

 

命にふさわしい(初回生産限定盤)(DVD付)

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amazarashiが新作MVを公開したので、皆々様が簡単に見ることが・聴くことが出来る楽曲ということで歌詞の考察、というか感想などを雑記していきたいと思う。amazarashiについてはもう新しい情報が公開されたら順次作業的に記事にしているので、内容は薄いかもしれないけどお付き合い願いたい。

 

この楽曲、好きだ。とても好き。秋田ひろむが上手なのは抒情的な表現であって、それを一番活かせるテーマは愛だと思う。それはポエムが最たるもので、ポエマー・秋田ひろむがここで顔を出す。しかしながらポエムというものは単純な愛情表現が美しいとは限らない。秋田ひろむの感性も勿論単純ではない。そこにぼくは惹かれているのだから当然と言えば当然なのだが。

好きな人ができた 確かに触れ合った アスファルトより土 鋼鉄より人肌 

無意識に選ぶのが 冷たさより温みなら その汚れた顔こそ 命にふさわしい 

 好きな人ができた。その時何を思うか。人間という生き物に生まれるとどうしても愛が恋しくなるもので、生きていれば誰しも愛を必ず知ることになる。表題にもなっている「命にふさわしい」のは愛なのだろうか。冷たさと温かさを天秤にかけて、温かさをしっかりと本能が選べるとき人はまだ生きていることを許されるような気がする。愛のために生きることが一番美しいと思ってしまう気持ちは死ぬまでぼくの中で消えないのかもしれない。愛のために生きることが出来るなら、どんなに醜くて泥臭くても恥じることは無い。

 身の程知らずと ののしった奴らの 身の程知らなさを 散々歌うのだ

前に進む為に 理由が必要なら 怒りであれ何であれ 命にふさわしい

 「身の程知らなさ」っていう造語、秋田ひろむらしいよね。「人間嫌われ」(ジュブナイル/ねえママあなたの言うとおり)とかもそうだけど、言葉のレトリックというか、裏の裏みたいな感じが心地よさを感じる。ハッとさせられる言葉を秋田ひろむは多用する。それが彼の独自のものなのか既出のものかはわからないけれど、それをぼくたちは知らなければ彼を媒介として出会っているわけで、ぼくたちにとっては初めてなのだからamazarashiを二番煎じと揶揄することはぼくには出来ない。ぼくが頭が足りないから共感しているだけなのだろう。読者よりも一段落低い場所から意見を書きだしているぼくを優しく見守ってください。

前に進む、ということが人生において何よりも大事だとするならばその原動力は何であろうと良いのだ。それがどんな感情だろうと命の前では等しくふさわしく、感情に良し悪しは無い。

こぼれた涙を蒸発させる為に 陽が照る朝を
飽きもせず こりもせず 待っている 待っている
全部を無駄にした日から 僕は虎視眈々と描いてた
全部が報われる朝を 

 自分でできることを自分でやらずに何か大きな力の到来を待つ。大層な話でもなんでもない事なんだよね。今できないことを何かのせいにしたり、運気とか占いとかそういった類に身を寄せることはきっとこのフレーズと何ら変わりないことだと思う。待ち続けることは何もしていないような気がするけれど、「待つ」エネルギーの大きさは計り知れない。忍耐も一つの強さだと思う。無駄なんて何もないのが人生であり命なのかもしれない、「報われた」そう感じることもまた何か理由づけしているだけに過ぎなかったりするよね。

友達ができた 理想を分かち合った 向かうべき場所に 歩幅すら共にした
裏切られたっていいと 道端ひれ伏すような
酩酊の夜明けこそ 命にふさわしい

 酩酊でなければやっていられないような、そんな心情がamazarashiには多く登場してくる。「友達の約束を守らなきゃ それだけが僕の死ねない理由」(雨男/夕日信仰ヒガシズム)とか、「酩酊して笑いあう 分かち合う 価値だけ続いてくれれば 明日もまた笑顔で帰れる」(あとがき/あんたへ)とか、やっぱり過去作の歌詞がどこか重なる。

amazarashiの世界観の中で「友達」が重要な存在として在り続けることがしっかりとうかがえる。信じあえる友というのは所詮幻想の世迷言かもしれないけれど、やはりいつになってもあこがれてしまう。信じて裏切られてしまうくらいなら恥じる必要はない、命にふさわしいのだ。

失くした何かの埋め合わせを 探してばかりいるけど
そうじゃなく 喪失も正解と言えるような
逆転劇を期待してる そしてそれは決して不可能じゃない
途絶えた足跡も 旅路と呼べ 

 喪ったらそれを埋めなくてはならない、元通りにしなくてはいけないと思いがちだけど、それもまたアリだと言えるような人になりたい。そうなる為には自分の行為すべてに自信と責任を持たなければならない。それは強い人間ではないだろうか。amazarashiは時としてぼくらに難しいことも強要する。アメとムチの使い方が上手だと思う。普通の人ができることを出来ないよな俺たち、なんて歌詞の合間に普通の人も苦労していることを然も当たり前にできることのように言い放ってくる。それでやる気になれる人がいるならば秋田ひろむの歌は誰かを救っているんだろうな。奮起する時にamazarashiの曲が聴きたくなるのはこの為だと思う。

 愛した物を守りたい故に 壊してしまった数々

あっけなく打ち砕かれた 願いの数々
その破片を裸足で渡るような 次の一歩で滑落して
そこで死んでもいいと 思える一歩こそ
ただ、ただ、それこそが 命にふさわしい

何かを守るとき、勢い余って壊してしまうことがある。「僕等は常に武器を探してる それがナイフじゃないことを祈る」(爆弾の作り方/爆弾の作り方)と以前歌っているように、すべてが丸く収まる方法というのは中々見つからなかったりする。たとえ失敗してもぼくらはそこで諦めてはいけない。その上を傷つきながらもしっかりと歩かなければならない。それが責任というものだろう。その結果、死んでしまってもそれは後悔にはならないのだから、きっと命にふさわしいと呼ぶに値する。

心を失くすのに値した その喪失は
喜びと悲しみは 引き換えじゃなかったはずだ
道すがら何があった? その答えこそ今の僕で 

 人間は最初は皆純真無垢である。生きていくうちに色々経験して人は変わる。心を失くすくらいの喪失に伴った悲しみは、たくさんの喜びから発生しているものだ。その過程をしっかりと覚えておかなければならない。ぼくという人格を構成するのもきっとその過程なのだから。夢は破れるし、希望は捨てた。結果だけ見たら何も得ていないように見えるけれど、途中で得たものはたくさんある。端的な結果だけでは表せないもの、そこにぼくが詰まっているんだ。

 

命にふさわしい。この言葉すごく難しいと思う。命という人間の倫理観や生命道徳で測っていいのか悪いのか曖昧なものに自分で定義づけることってすごく難しい。だけど、自分(命)にとって何が重要なのか考えてみたらきっと出てくる答えはふさわしい答えなんじゃないかな?そんな風に軽く考えるだけで良いと思う。誰も答えを持ち合わせていない真理に近づくための質問はそれぞれ自論があっていいし、きっとそれはその人にとっては答えであり続ける。常に同じ答えである必要はないし、経験を経て答えが変わるかもしれない。その変化もまたきっと命にとってはふさわしいのではないだろうか。命に何がふさわしいのか、ぼくも改めて考えてみたいと思った。(おしまい)