選択肢に善悪も強弱もあるものか

楽な方へ逃げることは悪い事なのか?

 

逃げるは恥だが役に立つ DVD-BOX

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(勢いで書いた中身のない記事だから流してくれてかまわない。30分足らずでダラダラと書いているもんだから、久しぶりの記事ということでリハビリ扱いの自戒メモみたいなもの。)

 

何かの転機が訪れたとき、選択を迫られることになるけれど、難しい方を選ぶことが美徳とされていて、簡単な方を選ぶと、それは逃げであると糾弾される。

果たして本当にそうなのか?と常々思う。

弱いとか強いとか、それらには絶対的なものと相対的なものがある。選択における強弱はあくまでも相対的であって、絶対的なものではない。そして、その弱い方ですら、他の何かと比較したら強い方に立ち回ることがあるかもしれない。

そして、そもそも「逃げ」という言葉が歪んでいると思う。逃げなんて存在しないのに。たとえ逃げた先にも現実は等しく待ち受けている。もしそれが本当に「逃げ」と呼ぶことが出来るなら、きっとその「逃げ」の先に、逃げた代償が待ち受けているはずだ。どこで相殺するかであって、逃げた人にも逃げなかった人にも踏ん張りどころは同じだけあると思う。某ドラマタイトルはまさしくその通りだと思う。

逃げ、という表現を使うことで善悪の価値観をも組み込み始めてしまう。逃げなかったから偉いとか、逃げたから恥とか、そういうのに振り回される人って絶対いるわけで、そういう弱者の心理を用いて自分勝手に他者をコントロールしようとしている感じも出るし、本当に言葉の暴力だと思う。

どちらを選んでもその先を歩むのは当事者でしかないし、周囲の人間が当事者になり替わることはできない。負け戦でも、被害者になっても、それを選んだのは本人なのだから、ぼくたちが外野からとやかく言うことではないんだと思う。失敗から学ぶこともあるし、失敗したらもうやり直しがきかないかもしれない。だけど、他人に言われたからできなかったことに対する後悔や、他人に助言されて得た成功に対する虚しさは付きまわってくる。自分がその事実に対してどれだけ自己決定したかという意識を持っていなければ、事実だけが全てだから何も思うことは無いんだろうけど…。

ぼくが同じ立場になったらきっと自分の行いがどれだけ影響を及ぼしたかどうかが判断基準になると思う。相手の助言を受け入れるかどうか、それ自体も自己決定であって一つの判断基準になるけど、数多の可能性を少しでも広く多く獲得するための一般論なんかで丸め込まれてしまったら、言葉に出来ない溜息しか出ないはずだ。

人生の目的が何か。それを各々自問自答してみてほしい。「何のために生まれて、何のために死ぬか」とかそういった大局的な宇宙論や哲学論じゃなくて、自分の信条とか今の気持ちとか、将来設計とかとか。

不必要なものの為に回り道をする必要はないし、その回り道をしなかったが為に損することが後々回収できるようなことであれば、早急に行う必要もないのだから優先順位を正せばいい。周りがどうだとか、そんなちっぽけなことに対して時間を無駄に消費するのはあなたの為にもやめてほしい。今したいことを今しないと後悔するんだから。保険をかけて、、、って思うことの保険って本当にいつか自分を助けてくれるのか?だれかを助けてくれる保険かもしれないけど、自分もその誰かに含まれているのか?

「逃げ」といわれるのは癪かもしれないけれど、その選択肢を選びたいならば、周りからの風評被害に耐えるのがあなたの踏ん張り所になる。

楽な道なんてどこにもない。これだけは言える。楽をする為にどこかで苦労している。自覚なき苦労もあることだろう。自分にとってはなぜか苦労と感じない苦労だってあるだろう。

人の生き方をテンプレートにあてはめて生きることは虚しくないか?当たり前のように大学を出て、就活して、働いて、結婚して、老いて死ぬ。その流れを断ち切る選択肢は逃げなんかじゃない。どんな選択肢を選んでもそれがあなたの人生の真ん中の道だ。ぼくは全ての弱者の味方でありたい。だれかの背中を押す文章になっていたらうれしい。

後悔してもいいから、どうか自分の選んだ道を進んでくれないか。(おしまい)