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新書なんて読むもんじゃない

新書にぼくは凹まされる

 

自己啓発の類だったり、世間や社会へ物申す!みたいな批評本だったり、生活を豊かにする知恵だったり、人が生きていくうえでベースとか根幹となる部分にはなくても別にかまわないような、ある意味では毎日を楽しくするための本であるような新書。

現代科学によって解明された一番効率的な○○、とか読んだらそれだけで自分がワンランク上がる、周りと差がつくように思えるモノばかりで興味をそそられる。

実際にそれを衝動買いして読み終わったところでその極意とか真髄とやらを体得したかといえばそうではないと思うし、付け焼刃で終わってしまうような気もする。即実践したところで明確な根拠を提示されたはずなのに人知れず不安になって自分はこの理論は肌に合わなかったのかなんて思うこともよくある。

自分を卑下する人ほどそういう傾向に陥るんだと僕の考察では導き出されたんだけど、本当のところは知らない。でも、それでも、ぼくはそうだと思うし、新書の入れ知恵なんぞを鵜呑みにして実践して成功したなんて話聞いたことないから別に新書を受け入れられなかった自分がダメな人間だと決めつけることはできないとも思う。新書を読んでよかったと思う点は人と話す時のネタ、酒の肴になることぐらいだろうか。ほかには見当たらない。もしあったらコメントでもなんでもいいからぼくにおしえてください。

ここまで下がって考え直してみると、新書に影響されてるやつらって酷く滑稽だと思えてきた。新書に書かれている方法を実践しようと自分の生活習慣やスタイル変えたりして四苦八苦してるんだもの。振り回されている人ほど滑稽で馬鹿なものはない。まぁ恋愛についても同じようなことが言えると思うんだけど、それはまた別の機会にでも書くことにしようか。

新書信者は馬鹿ばかり

新書がどれだけぼく以外の人に影響を与えているのだろうか。みんな新書を読んでは納得して実践して自分だけの何かを獲得できているのだろうか。そもそもこんなもの馬鹿らしくて読む価値もない!!!と思って読むという行為にすら至っていない人が大半なのだろうか。確かに人気を博しているように平積みされているあの本たちは果たして本当に売れていて、誰かの心を揺り動かしているのかね。ぼくの持論ではあれに心を揺り動かされているのは自分の意志を持たない馬鹿だと思うんだが・・・。

古本屋は新書の墓場

ぼくは小説や漫画を読むから、暇なときは古本屋に行ったりすることが多い。先日、新書についてのこのモヤモヤを抱えながら古本屋に行って、新書を定価で買うのは馬鹿らしいからせめて古本で買おうって思った。まだ新書を読みたいと思ってる自分がいることに多少腹が立ったのだが、誰かの意見を聞くということぐらいで落とせば悪いもんでもないかな、と納得して新書コーナーに寄った。その時、ぼくのそれまでの悩みや葛藤はすべて吹き飛んだ。そこには大量に並べられた新書の数々。古本屋が品揃えがいいとかそういうのはどうでもいい。これだけの数の新書が人々によって要らないものだと判断され、古本屋に持ってこられたのですよ。どれもこれも並べなれているのは人々が挫折した証なんです。そう思い始めると、笑いが込み上げてきた。みんなぼくとおんなじじゃないか、当たり前のように新書を購入して痛い目にあってるじゃないか!自分は周りとは違う、そう思う人がたくさんいる中で自分は変われるんだと決め込んで買った新書共がこの有り様!!!!みんな凡人だと思い知らされていたんだな、そう思うと自分もその限りって思い出して悲しくなったんだけど、わかったからいいんだ。ここにある本たちは不必要とされた本たち、中にはもう完全に会得したから手元に置いておく必要はないと思って古本屋に出されたのもあるかもしれないけど、本当に大事な本ってのは自分のそばに置いておきたくなるのが人間って生き物だと思うんだよね。要するにどれも例外なくして不必要な本!!!ってことはここから自分が興味をそそられる本を選んだところで誰かの不必要であり、ぼくを成長させることなんて到底無理なものであろう。無駄な買い物とはまさにこのこと。結果が分かっていて要らないものを誰が買うのだろうか。古本屋に陳列されただけでもう新書は墓場であるんだろうね。新書がいかにもそれっぽいことを述べていたとしてもぼくらはそれを信じなくてもいいと思うんだ。ここに新書不要論を唱えてこの記事を終えるとしよう。(おしまい)

 

批評家の言うことなど、気にする必要は無い。
批評家を称えて銅像が建てられたためしなどまったく無いのだから。
 ジャン・シベリウスフィンランドの作曲家)