暴力は教育に含まれるのか

親が子供に暴力を振るうことは許される?

 

暴力が正当化されることってあるのかなあ?って思って考えてた。子供の頃に親の言うこと聞かなかったら殴られたことがある人たくさんいると思う。僕もその一人。「うちの親は最高に人間性優れてる」なんていう人は親に洗脳されてるか、マザコンファザコンなんだろうなあってぼくは思うのね。

そもそも親の良し悪しってわからないものじゃないのかな。他人の家庭事情ってFacebookみたいに公けにされないし、ぼくだってしようと思わない。誇れる親なのかわからないし、もしかしたら他より優れてるのかもしれないけど、基準や比較が曖昧ではっきりしてないから確かめようがない。それに家庭事情に周りの人は殆ど干渉しないようにする暗黙の了解があるし、評価されようがされまいがプライバシーを自ら喪失してるようにしか思えないんだよなあ。他人が高評価してくれようが、口に出さないのであれば、低評価で幻滅してしまうリスク背負う必要性はないもの。ぼくの体感でしかないんだけど、他人の家の特殊環境の話をカラダが受け付けない。なんていうか、それこそ他人に見せない部分だから凄く自然体でいて、それが本来のその人なんじゃないかって思ってしまうことがある。例えば両親の事を「様付け」で呼ぶように教育してるって話を聞くだけで、今まで好感持ってた人が一気に評価下がる。誰しも自分の中じゃ家庭や家族の基準が自分の家に準拠してるわけで、その線からちょっと外れると違和感を覚える。家庭環境の比較は0に等しいようなものだから、とても鋭敏に感じるんだと思う。その違和感ってのも本当のところ、正しいものかどうか分からないし違和感を感じてる自分の方が間違っているのかもしれない。何が正しくて何が正しくないか、なんて誰にもわからないのだから、誤ったものさしで計られるよりかは公けにせず秘密にしている方が懸命だと思うんだ。

ぼくにとっての評価ってのは自分に伝わって初めて感情に結びつくから、別に自分に届かない評価なら気にしないし想像して杞憂するのは勘弁です。どう思われてるかは気になるけど、四六時中気にしているわけにもいかないし、評価上げるために生活してるわけでもないからね。ぼくの知らないところで嫌ってくれる分には何も問題はない。それがぼくの耳に届くとなると話は別だけどね。

親が子供に暴力を振るって言うことを聞かせるってのは正しいのか。力こそ正義なんて言葉もあるけれど、口でダメなら力でねじ伏せるしかないのかなあ。言うことを聞かないんだったら仕方が無い、とか、じゃあ力以外に何か解決策はあるの?って言われると反論出来ないんだけど、妥協案を出すならば、物心ついてない幼少期くらいなら許されるのかな?理屈が通らないから仕方が無いのかな。でも右も左も分からないのに間違ってると押し付けて、納得する間も与えずに暴力ってのは間違ってるような気もする。

暴力も教育に含んでいいものなのか?ずっと頭の中でぐるぐる渦巻いてる疑問。(暴力って言葉が既に批判者側の言葉で振るっている人たちにとってアウェイなんだけど、)暴力を行使する時点で教育者失格な風潮が現代にはあるよね。ぼくもその通りだと思う。言葉で説き伏せることすら、ままならないから暴力に走ってしまう。こうなると敗北宣言でやんす。私は貴方を言葉で説得できませんでした〜。って事だよね。これは全ての事例に対応できる公式のようなものではないんだけど、当てはまらないのは、言葉が通じない乳幼児期だけ。かと言って乳幼児期ならぶん殴っていいことにはならない気もする。乳幼児期は出来なくて当然なんだから、許す心が必要というか、無理に言うことを聞かせることはやっぱり不可能なんじゃないかな。話が通じないのに親が一方的にカッカして暴力に走るのは見当違いだろうなあ。乳幼児期にマジギレしてるのはノイローゼに掛かってるレヴェルだよきっと。

暴力は正当化される事は無いんだと思う。暴力振るってて、それを当たり前田のクラッカーと思ってる奴等は総じてアウト!!!お前ら全員敗北者だかんな!!!!暴力と密接に関わっている家庭環境で産まれる人格は手本になるようなもんじゃない。DVによる二重人格とかも聞くし、暴力で育った子供は自分の子供にも暴力を振るってしまう傾向があるらしい。まさに負の連鎖、暴力のスパイラルですよ!!!!暴力を当たり前だと認識してしまうような家庭環境はゼッタイにダメだと思う。

暴力主義者がこの世から消えてくれと心から願おう。DVに耐えられずに死を選ぶ人たちが一人でも減りますように。家庭環境って厄介なもんだなあ。(おしまい)