思い出なんか消えてしまえ

思い出があることでぼくの人生は変わるんだと思った。

 

 

思い出とは俗にいうと喜怒哀楽の経験の記憶で、それがあるから失敗を繰り返さず前へ進めるんだと思う。でも、思い出があったところで同じ失敗をしてしまうことだってある。それは思い出があることで自分を責めるものに変わってしまうと思うし、失敗する自分を卑下してしまうような気もする。思い出があるからときどき不安で怖くなる。思い出がトラウマに変わってぼくらの足を重くするんだろう。それなら思い出なんて消えてくれればいいのに。どうせ明日が続くなら思い出なんていらない、そんな風に思うことがしょっちゅうある。楽しかった思い出に縋ってしまう。今の自分がみじめで仕方がなくて楽しかったあのころに戻りたくなったり、思い出の中にいる昔の自分がある手前今の自分の言動は「らしくない」ものだったりと勝手に自分で悩んでしまう。

メダカは思い出を残すことができないらしい。一日経ってしまうともう忘れるんだと。そんなメダカがうらやましくて仕方がない。大好きなあの人の笑顔とかそういう忘れたくないものと同様に忘れたくて仕方がない思い出とかもたくさんある。楽しい思い出は作ればいいけど、悲しい思い出は作りたくないし、消したい。そう考えれば楽しいと悲しいは同時に消してもたぶんプラスな気がするんだ。ぼくは何度も選択肢を間違えた人生を過ごしてきたと思う。そういう自分が憎たらしくて悲しくて、でもそう思ってしまう自分が切なくて、この思い出さえ消えてくれれば自分の人生を胸張って毎日生きていける気がするんだ。

思い出があるからぼくはいつまでたっても自分を抜け出せなくて、抜け出せないからこそ自分なんだと思うんだ。思い出のせいにして自分を正当化してるんだと分かってるけど、わかってるんだけどそれでも、それでも何かのせいにしないとぼくはダメな気がするんだ。思い出がなかったらぼくは変わることができたのかな・・・。

 

認知症の人に何度も接したことがある。認知症って程度はさまざまだけど今のぼくの願いのように思い出がのこらない。1日で消える人だっているし、すぐ消えてしまう人だっている。周りから見たらすごく悲しいんだけど、たぶん本人はその悲しさの理由すら覚えてないんだろう。周りからの目ではなく本人の中では何も障害はないんだと思う。じぶんが障害を抱えているということに気付けないのだからある意味不幸せではないんじゃないのかな。倫理的にどうこう言われる話だけど、ぼくはこう思うわけで、自我はどうなってしまうのかとか第三者には理解できないレベルの認知症にならばかかってもいい気がする。認知症患者でも軽度の人は覚えられないことがすごく怖くて悲しくて辛いだろう。症状が悪化するにつれて楽になっていくんだろうか。忘れてしまうことの辛さは大きいと思う。それは忘れずに覚えることをできた自分がいることが前提で、忘れてしまうのは以前出来たことができなくなる苦しみ。自分が今までできたことができず、劣等感から周りと区別されてるように感じる。たぶん周りも同じ状況だったり、自分が元から覚えることができなかったらそういった感情は発生しないだろうな。そう考えるとあらかじめ一つしか与えられていない受け身の状態ってすっごく楽だろうなあ。

選択できるという苦しみ

そんな受け身の体現した興味深い話がある。北朝鮮から韓国に脱北した人がまた北朝鮮に戻ってくるという事例が多いらしい。

国民の自由度が低く、国に厳しく管理されていて能動的な生活を他国に比べて送れない北朝鮮が嫌で脱北して、なぜ戻ってくるのか。言語が通用しないとか、お金に困っただとか、習慣が違ったとかではなく、選択しなければいけないという選択義務に拘束されたから。あらかじめ一つしか許されない北朝鮮が当たり前だった彼らにとって沢山の候補から選択するということはとても苦痛なんだという。

こんな話をきいてぼくの精神状況とおんなじだと思った。選択することが嫌で、選択することの何が嫌かって社会的に正解、不正解のようなものが暗に存在していてそれがぼくにとってのプラスマイナスに直通するということ。常に正解を選びたいし、間違いを選べば自分を責めたくなる。そういう損得勘定で考える事しかできないからこういった思考回路になってしまうんだろうけどね。

思い出に幸せしかなければこんな事は言わなかったんだろう。ぼくは都合良い人生にしたがっている。毎回毎回悲しみを背負わなければ思い出大歓迎な人なんだろうな。ゲンキンな人間だ。

不幸があって初めて幸福の価値がある。比較対象があるから喜ぶことができる。不幸しかなければそれを不幸とは思っていなかったのだろうか。その逆もまた同じだったのだろうか。それはぼくにわかることではないけど、きっと不幸だけでも不幸の中でランク付けしてより不幸だったりより不幸ではないものを選出してしまう気がする。結局環境が変わろうが何しようが、この状況は人間である以上変わることは無いんだと思う。

思い出ができたそばから消えていく、そんな無生産で馬鹿みたいな暮らしができたならぼくたちはこんなに考えて悩むこともなかったのかもしれない。それでこそ人間なんだと人間の存在定義をする人もいるだろうけど、無くてもきっとぼくたちは楽しく生きることができると思う。知らないということは悪でもあると同時に正義でもある気がする。

 

ぼくたちは死ぬまで思い出と向き合っていかなくてはならない。神様、思い出なんていらなかったよ。なくしてくれよ。そんな風に思わなくなる日はぼくに訪れるのかな。減らすのではなく増やす思考になりたいな。おしまい。