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過熱する報道競争と当事者への配慮

報道は何のためにあるのか

 

 

先日、博多駅前の大規模陥没事故が発生してtwitterにたくさんの事故現場の写真や動画がアップされていた。その投稿者たちにメディアでの利用をしてもいいかどうか尋ねている報道関係者がたくさんいて、その記者たちに対して「被害状況を伝えることに躍起になりすぎて現場の声を聴こうとしていない」などという怒りの意見がちらほら見られた。

この怒りの声が世論の全てというわけではもちろん無い。しかしながら、どこにでも必ず賛成と反対は一定数いるもので、それらすべてを納得させることはとても難しいことは各々人生経験において肌で感じているはず。すべてを味方につけることができなかったらどうするか、それは自分が正しいと思った方へと進むしかない。報道記者は報道することで自分たちの正しさを主張、守備しているんだと思う。

過熱する情報競争で、他よりも早く情報を伝えることで自分たちの報道能力などを誇示したいからか、先述のようなマナーのなってない人間味のない行為に走っている人もいる。悪役は目立つもので、それらばかりに目が行ってしまって少数居る正しい人たちには目を向けることが難しい。それが大衆というものなのかもしれない。電柱の夜光虫のように「野次」という光しか見えていない。

野次や言いがかりや批判というものは視野を狭める。全体を俯瞰できなくなる。皆自分の正しさを主張することを念頭に置いているから頭でっかちで柔軟性に欠ける。そんな人間に言われたこと一つ一つ傷ついていたら心が幾つあっても足りないので気にする必要はないと思うのだけど、間違った情報が拡散されるのだけは許せないと、各自アンチには擁護を、賛同には欠陥を、互いに指摘し合う。人間とはなんて醜い生き物なんでしょう…って他の知的生命体からモニタリングされてたら言われるであろう地獄絵図。

だからと言って情報を遮断することはせず僕は目に入るものはなるべく見て考えるようにはしている。それがたとえ根も葉もないうわさ話の類だとしても、自分で嘘かどうか見抜けなければ、これに限った話でなくとも全てにおいて騙されたり勘違いしたり、更には自分が間違った情報の発信源になってしまう可能性だってあるのだから。そうなったら「ミイラ取りがミイラになる」ようなもので、本末転倒であるし。

今回の事故の言及で、ぼくが色々な話を見て聞いて一番心に残ったというか、感心させられた考え方がある。

togetter.com

 

確かに一方からだけ見ればどちらも納得できる話なんだよね。無知は罪であるか、それはひとまずおいといて。「人を案ずるのは当たり前」という前提条件はすごく素敵だと思った。「誰かを心配しろ!」って声高に主張することは自然状態で心配する状況は発生しないと言っているようなもので、それは「心配している私たち」という正義の盾にひびを入れる行為に等しい。「心配は当然するものでしょ?その先について私は考えているんだ」っていうのは詭弁に聞こえるかもしれないが筋は通っている。筋が通ってるかどうかってのは、実はどうでもよかったりする。

現代社会はインターネット社会であり、他人を誹謗中傷することがとても多い。ストレスフルな社会なのか、日本人はみんなどこかで怒っていて、怒りの捌け口を探している。それが匿名社会のインターネットに落ち着いた。常に人の粗探しばかりする癖がついている現代人にとって、この「人を案ずるのは当たり前」という精神はとても大事な気がする。「人を案ずるのは当たり前」が当たり前になった世の中を想像してみてほしい。すごく幸せな世界だと思う。捉え方一つで鬼にも仏にもなることができる。

誰かを疑うのではなく、信じることになる考え方は信頼の下にしか成立しない。そういう考え方が浸透していくのを僕は心待ちにしている。

それにしても、あれだけ大規模な事故だったのに負傷者が出なかったのは良かった。県知事のFBなどを見ると復旧に精力的に活動していて、頑張ってほしいと思った。九州行ったことないけど、同じ日本人として心配だし応援しているし何かあったら支えになるよ。大災害があったら何が生まれるかって結束力なんだよね。それが人の暖かい部分、すごく好き。一日でも早く元の生活に戻れますように心から願っています(おしまい)

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