何故友人ができないのか?認識の相違による需要供給変化

勘違いした人間は友達が出来ない。

 

僕は友達が少ない (MF文庫J)

僕は友達が少ない (MF文庫J)

 

 

  

このブログも本来は共感できるけどうまく言い表せない部分の言語化を目的にしていたりして、それが上手く表現できないから、思考のゴミ箱と化している。ゴミ箱になったらもう目も当てられない。当然なことをあたかも特別のように宣い、バーナム効果を誘うだけ。僕個人としては、音楽のレビューで埋めていこうと思ってしまい、挙句誰かにテーマを寄越せと質問募集なんかしてしまうわけですから(2016年)。

そんな2016年も終わってしまい、2017年が始まりました。心機一転、初志貫徹、頑張っていきたいと思いますので、今回はそんな「言われてみればそうかも!」ってことに原点回帰していこうと思います。

 

なぜか友達が少ない人間について

前置きが長くなった。

あなたは友達がいるだろうか?友達と思えている人がどれだけいるだろうか?どれだけの人に友達と思われているだろうか?

友達と定義づけられるのは自分と親しい人だけだろう。その親しさってどこから生まれてくるものだろう?そのうちの一つに「共感すること」が含まれていると思う。一緒に居て楽しいということは、共感が発生している。共感が存在するから一緒に居られる。共感なくして友達は無い。一見似たような人じゃなくても、ルーツや心根の同じ人間は一緒に居て苦痛を感じません。だからなぜか凸凹な人間同士、馬が合ったりする。

ぼくの周りには「友達がいない・少ない」とよく言う人が結構いる。ぼくからみたらその子たちは友達に囲まれている人と同じようにすごく魅力的で、友達が幾らいてもおかしくないようなタイプなのに何故か友達がいない。(もしかしたら現代では当たり前に存在が確認されるメンヘラ自傷少女とかなのかな?)なんて思ったりしたけど、そういうタイプでもなかった。

自己評価が著しく低い、いわゆる残念美人で自分の事を可愛くないと日頃から言っていて、可愛い子が似合う行為(ハートを連想させるような絵文字や顔文字を利用等)をすると「私がやったらキモイよね」と誰から文句を言われるわけでもないのに自発的に予防線を張って自分を蔑視するような子が多い。

自分へのハードルがすごく高い子なんじゃないかな?って思った。たぶん友達というものをすごく厳しめに設定しているんだと思う。「知り合いは多いけど、友達はいない(友達として認定しない)」という感じで、その知り合いに含まれる人はとても多く、他の人の評価軸では普通に友達に入るような人たちが含まれている。つまり、彼女の中では友達=親友レベルである。と仮定する。虚栄心から生まれるものや、痩せているのにデブアピールするような人もいるけど、明らかに何か問題を孕んでいるパターンもあることが明るみになった気がした。それについてこの記事では掘り下げていきたいと思う。

 

自己認識と客観的評価のズレ

冗談でも謙遜でもなく友達の数が同じ水準に属している同性に比べて明らかに少ない女性との話し合いを先日複数回設けた。何がそうさせるのか?それだけに焦点を当てて、踏み入った話をした。

共通して、自己認識と他人からの評価が著しく乖離していた。いろんな人からカワイイと言われ、過去の彼氏の周囲からは「あの元彼は面食いだったから貴方が狙われてドキドキした。」などという話をされても、自分が可愛くないという評価は揺らぐことがない。自分が多方面から同様の評価をされたとき、それはたとえ自意識とかけ離れていても間違いなく正当な評価なんだよね。同じ職場や学校など閉鎖的な空間で囃し立てられているのであれば話は変わってくるけど、環境が変わっても同じことを言われるということはお世辞でもなんでもなく明らかにその性質を有していることになる。

それでも自分のことをマイナス評価して卑下し続けると、友達としての需要を満たせなくなる。たとえば、かわいい子がかわいい子同士でつるむのは「同じ人間」であるから。この場合は容姿というわかりやすいステータスが属する人間の中で近似値を取っているため、このグループを自動形成する。

そのように表面的にわかりやすい性質で構成されるのが、学校におけるクラス替え当初などのグループ。しかし、表面的には仲間だと思えても中身が伴っていない場合が存在する。たとえば、ブサイクグループ(モテない、魅力がない等)なのに、話しかけてくる異性が自分に好意があると勘違いしてしまうタイプなど。これは自分がブサイク(ブサイクとは、あくまでも社会での相対的な価値)であることを自認していないために、相手の深意を読み取る力が欠落している。

周りの人間は「自分がどの程度に属しているか」を人生経験によって学んできたのに、その子だけは自分がどの程度かを客観的に正しく認識できずに現在に至っている。その誤差が直せない人はイタい人になってくるし、その誤差が共感を消滅させてしまうから周りと話も合わない。そうなると、違うグループに移ることを余儀なくされる。容姿や近隣で形成されたグループから性格や会話などのコミュニケーションによって在るべき場所に落ち着く。

 

勘違いした人間は勘違いに気付けない

自分が本来在るべき場所に収まらなかった人のことを考えてみる。本来在るべき場所に留まることが許されない場合、その人は仲間を見つけるのが困難になる。自分の場所を勘違いする人間はマイノリティ(少数派)であり、そのマイノリティになる要因は一筋縄ではいかないものばかり。複雑に形成された勘違いの方向性まで一緒の人を見つけるのは不可能に近い。

もしも奇跡的に勘違いまで似通った友人を得ることが出来たなら、その後一方が変化することが無いことを条件に生涯の友人になることだろう。しかし、自己認識はお互いズレているけれど、他人への認識は普通の人と同様に自らの人生経験でしっかり培われてきているから、よほど勘違いが似ていない限り会話の内容に共感するのは難しい。

自分がこれまでの人生で、周りからその誤差を指摘されても何も改善せず(出来ず)やり過ごしてきていても、今度は自分が指摘する側に立つことになる。勘違いの方向まで似ている友人に対して共感することなく、ただただ自分も同じように相手の勘違いを疑問に思うことになる。

自分を見つめることができないと、上記のような相手の間違い・勘違いを自分に置き換えて考えることも出来ない。人の振り見て我が振り直せが通用しなくなる。だから自分の問題点を解決することも出来ない。そもそも指摘してくれる自分のもとを離れていってしまう人ばかりで、自分のもとに残ってくれる人がいない。いるとしてもよほど話が合う・トークスキルが相当高い・話が出来るだけで相手を選ばない人などか、もしくはそういうイタい部分を理解した上で割り切った関係である人しかいないから。

既存の人間関係には組み込まれていない新しい第三者、そしてそれを上手く言語化できる人に出会って、自分にわかりやすい・納得できるレベルで説明してくれるというこの3つをクリアしなければ勘違いしている人たちは自分の誤差に気付くことができない。

 

 

キャラクターについて

現代思想精神分析などで斉藤環東浩紀などが良く論じている、「キャラクター」という言葉で置き換えて考えてみる。キャラクターというのは、たとえば天然キャラやいじられキャラなど、その人の他人とのコミュニケーションの上でどのような役割を果たすかを端的に表現したものとして考えると分かりやすいだろう。特段明瞭に表現することができるキャラクターのみに名前が与えられるわけではなく、すべての人が社会生活を送り他者と接する機会を得る時点で細かくジャンル分けされたキャラを持つことになる。

今件は、相手が求めているキャラと自分の演じているキャラがズレてしまっているから発生する。かわいい癖にブサイクキャラとか、頭いい癖に馬鹿キャラとか。そういったズレは誰からも共感を得ることはない

強いてあげることができるのは計算でズレたキャラを演じている人間だけ。しかしながら完璧に演じることのできる人間はそういった多少のズレに共感を得ない。基本的に何か自分を優位に立たせるための策があっての行動なので、たとえ同類を見ても敵になるので、それに共感も仲間意識も感じることは無い(ぶりっ子キャラやオタサーの姫は唯一性が保持されることに大きな意味がある)

したがって「自分はキャラを演じてます宣言」するような中途半端な馬鹿にのみ共感され、勘違いした人間の周りに寄ってくるのは違うベクトルで勘違いした奇人変人になってきたりする。

変な人にばっかり好かれる。その癖普通の友達は少ない。って悩みを抱えている人は、「友達が少ない」という孤独の連帯感や仲間意識から近寄ってこられているのではない。周りから変わっているね、という人と同様に表面化するほどの異常ではないけれど、勘違いをしている人間もまた変人との共通項を得られているからなんだよね。

 

人格破壊に繋がるなら表面的でも良い

友人が出来ない人たちはどうしたらいいか?ぼくなりの解決策を稚拙ながら記させてもらう。

とりあえず、これらのことに気付くことから始めなければならない。この記事を読んで自分もそうかもしれないと思った人はまず周囲の仲良しな人でも知人程度の人でもいいから、自分をどういった人間として認識しているか、について訊いて回る必要がある。そこで大多数から支持が得られた自分のキャラクターや個性・人格に、自意識との誤差があった場合にその修正を図らなければならない。「そんなことないよ~」とかいう謙遜とかいうやつはもう救いようがないので死んでしまえ(社会的に孤独で)

勘違いしている人間は友人とおしゃべりするときにも相手にストレスを与えてしまう。だから、だれかと会食に行くことも著しくハードルが上がる。

ぼくの場合ブサイクと周りから言われまくり、それが過度なイジりだったせいもあって誰かに「そんなことないよ?言うほどブサイクではないよ?」と言われても信じることが出来なくなった。自然発生した自意識では無く、周囲によって学生時代に植え付けられた自意識だから取り除くことが出来ず、ぼくもまた厄介な存在に成り果ててる。

厄介な存在になったぼくも自分で友達と定義づけることが出来るハードルが著しく高い。友達と呼べる人が多分人より少ないけど、一般的に友達と呼べるラインに立っている人を友達認定していないだけというのも十分理解しているつもりだ。だから、ぼくもまた自分で新しいキャラクターを演じて人付き合いをすることで何とか均衡を保っている

この問題は根深いから根本から修正する必要は実はないんじゃないかと思ったりもするけど、それを自分のアイデンティティとして周りに提示してしまうとおかしくなる。抜本的改革というものがいかに難しいかを知れば知るほど、表面的な改善で間に合うのであればそれでいいと思うぼくがいるのも確かではあるし、あなたがそれを自分の人格として組み込まれているなら無理に壊す必要はない。それは人格破壊になるから。

しかし、周りから求められる自分を振舞っていく必要がある。たとえば、可愛いやカッコイイと言われたらそれを素直に受け入れたり、そういうキャラクターで振舞うポジションに立っている場合にはしっかり自分の与えられた役割をこなす、など。しかし、それが難しいというなら残酷な言い方だけど、勘違いした人間のあなたは永遠に今のような人間関係を繰り返していくしかないと思う。別に改善しなくてはいけないというわけではない。だけど自己認識が間違っているということはあなたにとって何のプラスにもならないということだけは確かだ。

色々と言いたいことが有って、それをうまく表現できてない気がする。ちょこちょこ加筆修正していきたいと思う。乱文散文ではあるのだけど、ここまで読んでくれてどうもありがとうございました。

しっかりと人間観察が出来る人はきっとあなたをしっかり救ってくれる。あなたの周囲にそういう人がいることを願う。(おしまい)