言葉の持つ力・意味・可能性ー「リビングデッド/amazarashi」

2018年11月7日、EP「リビングデッド」発売記念、簡易レビューという名の感想です。

 

リビングデッド(特典なし)

リビングデッド(特典なし)

 

 

 amazarashiの記事を書くのは約1年ぶりということで、amazarashiの記事のみでお会いする皆々様、お久しぶりです。春にはAimerとのアジアツアー、それからアルバムツアー、秋には来週に控えた新言語秩序、とLIVE活動の方に精力的になっているようで。お前正直な話 率直に言ってこの現状をどう思う? 俺はこれは憂うべき状況とは全然考えないけれども かといって素晴らしいとは絶対思わねえな。

ぼく個人としてはやはり音楽活動として、作品を創りつづけてほしいと思ってしまうわけで、LIVEで新たな試みをするのもいいのだけれど、それに並行して作品も一定のペースで発表し続けてほしい。異論は認めますが、ぼくはLIVEの演出とかは彼の作品の魅力に比べたらちっぽけなものというだけです。作品こそがアーティストの顔であり、それを肉付けするLIVEは正直どうでもいい。だって色んな意味で、生で観れる人限られてるし、全てを満たすことを出来ないのがLIVEだと思うから。それなら誰の元にも平等に運んでくれる、歌やCDを優先してほしいと思う。まぁ、ただそれだけ。

何度も言っているかもしれないけれど、ぼくは一つの歌は一つの歌だけで完結してほしい。裏設定とか、他の作品とのリンクとか、そういうのは結局歌を聴くだけじゃわからないから。歌は歌だけで意味を持つべきだと思うし、その他を混ぜて初めて完成するものは奥が深いわけではなく、不完全なだけで底が浅いという思いはいつも消えない。

と、発表ペース速度に加えて、今回のシングルが武道館ライブの為の演出に関わってくるもの、つまりシングル単体で完成されているものでないという、LIVEが密接にかかわり始めているスタイルに疑問と警鐘を鳴らしたく、小言をわざと洩らしました。

 

愚痴はこれくらいにして、今回のEPの3曲について話をはじめないと。Youtubeで公開されている”検閲済み”のPVとかLIVEとの連動企画、アプリその他諸々はそういうのに聡い人に解説とか考察を書いてもらうことにして、ぼくは歌としての側面のみで話を進めていきます。ぼくのは考察というよりただの個人的感想です。どうぞお付き合い願います。

 

 

1.リビングデッド

 「生きながらに死んでいる」と過去作「冷凍睡眠」で歌っていたような「死にきれぬ人」をリビングデッドと称している。単調なリズムが最初からずっと続きながら緊迫感のあるメロディラインがこういうテーマの時のamazarashiらしい。最初はあまり耳馴染みがよくなくて好きになれないんだけど、ヘビロテして聴いているうちに好きになってしまう。今まで同様、そんな曲の一つになるはず。(追記:この記事を書いている間に早速好きになってしまった)最近のamazarashiっぽくてこの曲も全体を通して、前向きな曲なんだよね。マイノリティへの応援歌、レベルエールになっていて、秋田ひろむの歌に込める願いがこの歌にもまた強く体現していると思う。

翻(ひるがえ)って誰しもが無罪ではいられぬ世にはびこって
断罪をしあったって 白けてくるぜ
愛が去って空いた穴 塞ぐための巨大な偶像は ここにはない
少なくとも僕の部屋には 

 過去作「多数決」でも歌っていたけれど、”翻って”、つまり目を変えれば誰もが罪人なのかもしれなくて、その罪人同士が断罪をする、なんと滑稽なことか。各人が役割として行う断罪は真に断罪になるのか、誰かの傀儡として断罪をすることに意味があるのだろうか。その意味を常々考えて行動しなければならない、それは言葉の持つ意味を考え直す今回のテーマに通じるものだと思う。
愛が去った時の空虚を埋めるものは一体なんだろうか。ぼくも失恋したときには宗教を必要に感じた。何か縋るものが無いと心が折れてしまう。縋る即ち、自分の過失を超越した何かに判断を委ねたくなる。自分ではどうしようもないんだってことを、その過失にも今後の未来にも当てはめて、誰かに、何かに、救いを求めたかった。

自分の部屋にはその救いの偶像が無いということを俯瞰できている主人公は敗北を自覚しながらも芯は折れておらず、つまり前を向こうという意志はあるように感じる。ぼく自身そうだったからよくわかる。長い人生の遠回りの中で“一つの”喪失は終わりを迎え始めているということだろう。

もっと生きてえ もう死にてえ そんなんを繰り返してきて
リビングデッド リビングデッド 人生を無為に徘徊して
もう無理って飛び降りて 我関せずって面でいいって
背負わずに生きれるならそうしなって 

 「生きたい」と「死にたい」は常に同居する。厳密には交錯するのかもしれない。不安定な自我においてそれら二つの感情は往々に自分の中で目まぐるしく交代を繰り返す。

後半の二行の歌詞のような言動が出来ないから、今こうして死にきれずに此処にいる。肉体的な死だけではなく、自分という己を殺すことが出来ないという意味でも死ねない。ぼくはぼくで在り続けようとしてしまうから、こんなにも苦しい。それはとてもとても人間らしいんだけどね、人間らし過ぎるとこんなにも辛い。

永遠なんてないくせに 永遠なんて言葉を作って
無常さにむせび泣く我ら
後悔も弱さも涙も 声高に叫べば歌になった
涙枯れぬ人らよ歌え 

 言葉が表す意味が、現実に存在しないものだとして、それを言葉に起こして表現すると、どんな言葉も”言葉として”存在してしまうから、ぼくらはその存在を探そうとしてしまう。そんなもの存在しないならその言葉を作るな、と悲しくも怒りにまみれる自分はきっと弱いからで、自分の立場が変われば“永遠”だって感じることもできる。立つ瀬さえ変われば言葉は発現する。言葉は常にぼくらに纏わりつくものだが、優しくも厳しくも、其処に在るだけのものだ。自分がどう捉えているか、それが現在のぼくらを表す指標になる。

歌とは何か、自らの歌で表現したい、そんな意思表示を感じる。負の感情を現す術には色々あって、歌にも愚痴にもなるわけで、何にでも変わるから”言葉”なんだろう。ならば、弱者であるぼくらは歌にするべきだ。意味を持たせよう、歌として。自分の為にも誰かの為にも遠い未来の為にも。それがamazarashiの歌に対する考え方で答えなのかなと。

過ちで しくじりで 石を投げるのはやめときなって どうせいつか間違う
もうすでに間違えてるんだし
隣人を愛せずとも 不幸にはならない時代にあって
分かり合うのはそうそう簡単ではないから 

 他人を非難するのは、自分が非難されない状況であって初めて出来ることで、自分が非難される状況に転化することもあるなら、やめるべきかもしれない。そもそも間違いを危惧している現在既に間違えているかもしれないし。

隣人を“愛せず”というフレーズは、“愛さず”ではない事にも意味があるのかな。「汝、隣人を愛せよ」に対応するフレーズだからその否定形という形式で、“愛せず”なのかな?
どっちだろうか?「愛せない」と「愛さない」は意味が違ってくるんだよね。

とりあえずどちらにせよ、他人と関わらなくても生きるのに然程関係なくなってきている現代社会において分かり合うことのハードルは更に上がっている。最早過去の格言などが通じない世界になりつつあるのかもしれない。

正解なんてないくせに 正解なんて言葉を作って
己が明日さえ 縛りあう我ら

 正解がある場合、必然的にそれ以外は不正解になってしまう。そうして自分たちの中に多様性を否定して画一的になろうとする。正解ってなんだっけ、時々形骸化している自分が居たりする。正解を定義するから苦しくなる。それなら正解なんて必要ないのでは?正解の必要性について考えるのをやめてはいけない気がする。

正しさを求めているならば 少なくとも居場所はここじゃないぜ
ここじゃないぜ
間違った情動をくべる 負け犬の蒸気機関車の旅程
くそくらえ
清廉さ潔白さも 諦めざるを得ず手を汚した
取るに足らないたわごとだと 見くびる傲慢どもの寝首を掻く
報われない願いをくべろ 叶わなかった夢をくべろ
遂げられない恨みをくべろ 死にきれなかった夜をくべろ 

 正しさは此処にはないけど、だからなんだというのか。正解と正しさは違う。正解じゃない道を選ぶことは必ずしも間違っているとは言えない。そういうところに言葉の持つ不完全性というか、多様性があって、それを感じているからこんな言葉が胸を突いて出る。傍目には間違っているかもしれない情動が僕たちの原動力になっているんだったら、それは敗者だと罵られた人生への反逆の狼煙になる。機関車のように自分の前にはレールがあって、前に進めているんだったら、きっともうぼくらは負け犬ではない、そんな気がする。原動力になるものだったら夢でも希望でも絶望でも何でもいい、全て糧にしてしまえばいい。そうして人は成長するのだろう。

 

2.月が綺麗

1曲目とはうってかわって、正反対のストレートなバラード。最初に聴いたときに「星々の葬列」と曲調が似ていて、あれ?曲間違えた?みたいな感覚に陥った。「たられば」とか「数え歌」とか、シングルのカップリングにはこんな落ち着いた感じの優しいバラードを抱き合わせるのが定例になりつつある。

言葉をテーマにしている楽曲としてはこの曲の方がダイレクトに表現されている。言葉の量など表面的な部分。リビングデッドでは言葉の意味がテーマに感じたけど、この曲は意味は重視されているようには感じなかった。

「月が綺麗」と言われたら、すぐに浮かぶのが夏目漱石の話。「I LOVE YOU」を「月がきれいですね」と訳すと言った話はあまりにも有名。そこから着想を得たわけではないだろうけど、そういう言葉の美しさ、みたいな部分も意識してたりするのかな。あとは一応ラブソング的な立ち位置の歌ということをはっきりと表現したかったりするのかなとも。

涙が地面に落ちるのは それなりの重さがあるから
人生において苦楽は 惑星における衛星のよう
喜びだけを掴みたくて 近づき過ぎて墜落して
台無しだって泣いたんだ ところで今夜は月が綺麗 

 涙に重さがある、それは涙に伴う感情には多くの言葉があって、それらに重さがあるから、ということだろう。こういう詩的な表現大好きだ。
人生には絶対苦楽が共にある。それは人間らしく生きている以上切っても切れない関係。衛星のようにずっとそばに在り続けるもの。苦しさだけも楽しさだけもどちらか一方だけなんてありえない。苦しさがあって初めて楽しさが存在できる。逆もまた然りで必ずどっちも存在する。それは辛さでもあり救いでもある。明けない夜はない。

僕は時間を言葉で測る 千文字過去は捨てて行く
一万文字疎遠の彼とは 飲みにでも行かなきゃ足らないから
お陰で千鳥足の帰路 北も南も分からなくなって
もう諦めて寝転んだ歩道 空なら迷わず行けるのに 

 一定の期間を語るとき、長ければ長いほど多くの言葉が必要になる。遠い過去から紡ぐことをやめた言葉はきっともう自分の人生には関わらないのかもしれない。それでも、友人というものはそう簡単に切り捨てられるものじゃない。少なくともぼくにとっては、切り捨てたくないものとも言える。
そんな友人との空白を久しぶりに再会してたくさんの言葉で埋め直さないといけない。過去の思い出に、今の自分と友人。語りつくせない変化に酩酊する。そんな時間が永遠に続けばいいと思っても必ず終わりは来るもので、友人と別れ現実に引き戻されたとき、自分の立ってる場所がわからなくなったりする。

空だったらどこにでもある、すぐに行ける。それは皆が等しく見えている世界だから。そんな世界に行くことを選べる人生だったらよかった。それが叶わないからぼくらは方角を見定めて自分の道に足を付けていかなくてはならない。空に行けたらどれだけよかったことか。

プライドを守る為に 人を否定なんかするなよ
綻びはすぐに縫い合わせ
継ぎ接ぎだらけでみすぼらしい でも信念は大概そんなもんだ 

 自分のプライドの為にだれかを否定することは、酷く滑稽だとぼくは思う。誰か認めるということは自分の弱さを認めるということにつながる。弱い人間であればあるほど、誰かを傷つける。自分が傷つくことを恐れているから。プライドよりも大事なものが見えるようになりたい。それが見えたとき、直していく綻びがいつか自分の信念となり自分を形成していく。誰だって最初から完璧なわけがないから、継ぎ接ぎだらけでも良い、それは立派な勲章となりあなたの支えになるから。

喪失と欠落の空白 埋める為に選んだ何か
人生において苦楽は 惑星における衛星のよう
重力に縛られた僕が あの星へ行く為の言葉
国道に寝転んで ところで今夜は月が綺麗

 喪失と欠落の空白を埋めるために選ぶものって何だろう。その時々によって違うんだろうけどさ、ぼくを此処に縛る重力のような存在の何かから解放されて、惑星のような遠い世界に行くために必要な言葉ってなんだろう。一等星のように誰にも等しく眩しい言葉が必要なのか、六等星のように人によっては見えない輝きの方がいいのかな。僕にとっての“あの星”の明るさはどれくらいだろう。其れはぼくにしかみえない惑星、六等星のような惑星であってほしい。それがきっとぼくにはお似合いだ。

 

3.独白(検閲済み)

LIVEと連動してる一番の曲。武道館公演が終わって初めて検閲前の全編が公開されるんだとか。ほとんどノイズで聞き取れないし、まぁ一部の歌詞から推測するっていう言葉の可能性みたいな部分を実験するのはいいんだけどさあ、5分って長くないですか…。ちょっと聴くに堪えなかった。最初の1回だけ聴いてあとはもういいかなって感じ。amazarashiへの信仰心が試されている、そんな曲だった。この曲に関しては、武道館公演が終わって、検閲前の歌が公開されたら、追記で書き足します。どうぞよしなに。

 

3曲とも違ったアプローチで「言葉」について切り取った歌で、試みとしては面白いけれどEPとしての完成度は正直及第点とは言えないかなあ。彼らを好きになってしまったぼくにとってはまぁどちらでもいいんですけどね。好きなようにやってほしい。どんな結果であれ過程であれ、ただ追従していくしかないんだから。これが好きの魔力ですよ。本当ズルいよね。好きになったもん負けですもん。

実験空間と称して、武道館公演を終えた後、amazarashiとしてどのように舵を切っていくのかについてはすごく楽しみ。そこだけはしっかりと追っていきたいと思う。正直今回のはLIVEの為の書下ろしだし、前作からの連続性はないと思って切り離して考えてる。次のEPやシングル、アルバムが「今後のamazarashiを占う試金石」になるんだと思っていたりします。なので今回のEPはぼくの中ではノーカウントくらいの感覚だったりします。

さんざん文句を垂れておきながら、ぼくも武道館公演観に行きます。ありえないけど、もしぼくを見つけたら話しかけてくれたらうれしいです、ありえないけど。気が向いたらレポでも書きますので、その時はまたよろしくお願いします。(おしまい)